平将門公|将門塚保存会 » 将門塚 改修工事のお知らせ|東京都千代田区大手町1-2-1
抜粋 :
この度、平将門公没後1081年にあたり、1961年の第1次整備工事以来、数えて第6次目の改修工事を実施することになりました。
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なお、これまでと変わらず神田神社において御祭神・平将門命としてお祀りされておりますので、ご参詣くださいますようお願いいたします。
日々お忙しい中ご参詣くださいますこと、重ねて御礼申し上げます。皆さまに将門公のご加護がありますこと、心よりお祈りしております。
抜粋終了
何てこった.....。
過去記事にもしましたが、
将門公の首は京へ運ばれ晒し首となるも、3日後には東の方角へ飛んで行ったとされます。
ちなみに、将門公の胴体塚もあるようで、平将門の胴は、弟の平将頼らによって下総国岩井村(現在の茨城県坂東市)の延命院境内に密かに葬られ、境内にある不動堂の裏に円墳があり、この塚を将門山、または神田山と称していますが、神田山と称されるのは神田明神と関係あるからなのでしょう。
聞いた話では、神田明神の神田は『かんだ』ではなく『からだ』と言ったらしい。
もしかすると、斬首された将門公の体の方は茨城県の延命院境内ではなく神田明神にあるのかもしれないと思ったりもします。
将門首塚の由来を記されている石碑、その文面には、白光を放ちながら東方へ飛び、将門の首が戻ってきたとき、大地は鳴動し太陽が隠れ真っ暗になったと伝えられています。
ただの作り話か?
それとも象徴となる現象や異変があったのでしょうか?
「大地は鳴動し」とありますが、この時代は地震が多発していましたので、これは地震のことかと思われます。
「太陽が隠れ真っ暗になった」ということから、日食かな、と思い調べてみましたが違うようです。
将門公が死没したのは940年頃、とは言うものの、実際は謎です。
もう少し前だったという話もありますが、死没記録の10年前の異変になりますと、
930年
5月24日
太陽が「虹色」の光を発すという異変あり。『扶桑略記』
6月 8日
不吉な「大雪」が降る。
『吾妻鏡』吉川本
などがあります。
また、940年ではなく、903年頃ではないか、という説もあり、905年としますと、この年に彗星が現れ、月食などがありました。
940年に近い937年としますと、この年の11月に富士山が噴火しています。
その約10ヶ月前には日食が起きています。
首塚、実際に首があるかないかはわかりませんけど、工事が無事(諸説ある祟りなどなく)終わった後には首(塚)が戻るということなのでしょう。
しかし、それまでは無事でも......
白光を放ちながら東方へ飛び、将門の首が戻ってきたとき、大地は鳴動し太陽が隠れ真っ暗になった...
祟りなど、都市伝説に過ぎないのか?
では。