という記事から抜粋します、
東京、最大の魔所というと、大手町にある「将門の首塚」である。この首塚は、京都でさらし首にあった将門の首が死後何日経っても腐らず、「体をつないでもう一戦せん」と叫び続け、東京まで飛来し、同地に落下した事から始まる。
途中静岡で射落とす為、矢を射られたとか様々な伝説があるが、実際は将門ゆかりの人物がさらし首に絶えきれず、関東まで奪い返したものだという。
その後、首塚が落下された場所に奉られるのだが、合祀されていた神田明神は江戸幕府の鬼門を護る為に移転するのだが、首塚はそのまま残されてしまった。何故残されたのか不明であるが、実際には当時にも何らかの祟りがあったのかもしれない。その後「将門の首塚」の祟り伝説は続く。
以前、将門首塚へ行った時の写真
将門公の首は京へ運ばれ晒し首となるも、3日後には東の方角へ飛んで行ったとされます。
ちなみに、将門公の胴体塚もあるようで、平将門の胴は、弟の平将頼らによって下総国岩井村(現在の茨城県坂東市)の延命院境内に密かに葬られ、境内にある不動堂の裏に円墳があり、この塚を将門山、または神田山と称していますが、神田山と称されるのは神田明神と関係あるからなのでしょう。
聞いた話では、神田明神の神田は『かんだ』ではなく『からだ』と言ったらしい。
もしかすると、斬首された将門公の体の方は茨城県の延命院境内ではなく神田明神にあるのかもしれないと思ったりもします。
▲将門首塚の由来
その文面には、
白光を放ちながら東方へ飛び、将門の首が戻ってきたとき、大地は鳴動し太陽が隠れ真っ暗になったと伝えられています。
ただの作り話か?
それとも象徴となる異変があったのでしょうか?
「大地は鳴動し」とありますが、この時代は地震が多発していましたので、これは地震のことかと思われます。
「太陽が隠れ真っ暗になった」ということから、日食かな、と思い調べてみましたが違うようです。
将門公が死没したのは940年頃、とは言うものの、実際は謎です。
もう少し前だったという話もありますが、死没記録の10年前の異変になりますと、
930年
5月24日
太陽が「虹色」の光を発すという異変あり。
『扶桑略記』
6月 8日
不吉な「大雪」が降る。
『吾妻鏡』吉川本
6月15日
月食が観察される。
『扶桑略記』『本朝統暦』
などがあります。
また、940年ではなく、903年頃ではないか、という説もあり、905年としますと、この年に彗星が現れ、月食などがありました。
940年に近い937年としますと、この年の11月に富士山が噴火しています。
その約10ヶ月前には日食が起きています。
白光を放ちながら東方へ飛び、将門の首が戻ってきたとき、大地は鳴動し太陽が隠れ真っ暗になった...
何かしらの意味があると思っています。
この石碑の裏には
灯籠のようなものがあります。
この場所が首塚なのでしょうか?
将門公の祟りは本当にあるのでしょうか?
何だか気になってきましたので、また将門首塚へ行ってみます。
では。